義父、永眠

昨年12月24日、女房の父親が亡くなった。享年83歳。日本手ぬぐいの染色を生業とし、79歳で脳梗塞を患うまでは現役として仕事をしていた。大正の世に生まれ、激動の昭和を生き抜き、平成の世に逝った典型的な庶民の一人だったと思う。不平も泣き言も言わず、人を憎むこともせず、ただひたすらに黙々と仕事をし、2人の子どもには何一つ不自由させることなく育て、自身は慎ましい暮らしに徹した。

俺は、このような人こそが日本の国を支えているのだと常々思っていた。遺書は「自分の死に際しては、家族以外誰にも知らせず最低限の法的な手続きのみ行い、通夜・葬儀・墓・仏壇・戒名の類いは一切必要ない。遺骨は長年慣れ親しんだ淀川に流してくれたらいい」という内容の実にキッパリとしたものだった。このままコピーして自分の遺書にしたいと思ったほどだ。後は近親者への感謝の言葉や、孫達との楽しい思い出が綴られていた。素晴らしい人だった。

遺言

我郷は何かにつけて人が寄り集まり、馬鹿話をしては盛り上がっているが、よく話題になるのが葬式やお墓のことだ。年寄り臭いと言われたらそれまでだが、俺はこの話題が嫌いでないし、自分の死に対する考えを普段から親しい人達に語っておくことは大切なことだと思っている。死後、世間一般的な儀式などをしなくても、家族が故人の意思を酌んでいるのだなと理解してもらえるからだ。

葬式は生き残った者が心の整理をするための儀式だという人もいるが、俺は賛同できない。 例えば「末期的症状での延命治療はしないでくれ」とか「死後葬儀・お墓の類は一切必要ない」などということは、その人の生き方の延長上にあることだと考える。

信心の厚い人は「神に召される」だとか「仏になる」といった発想でいいと思うし、そこの伝統的儀式に法って行えばいいと思う。そうでない俺のような者は、人生の結末も自分らしくあればそれでいい。

人間の死には2段階あると思う。脳の活動が停止し心肺機能が止まること、つまり生物としての死だ。焼かれて灰になって後形もなくなる。ただ、生きている人の心の中に残っているうちは、この世から完全に消滅したとも思えない。俺の心の中に生きている人はたくさんいる。俺のために手を合わせてもらうお墓や仏壇と云ったものはいらない。俺の人生を彩り楽しませてくれた人達に時折思い浮かべてもらえればそれで充分だ。この世に誰も俺のことを思い出す人がいなくなったとき、完全消滅するのだと思う。

完全無欠な死

俺の完全無欠な死のイメージについて記しておきたい。

70歳代後半、朝食後いつものようにコーヒーの御替りを持ってベランダに出る。「いい天気だなぁ」と朝日に輝く大阪湾を眺めている。とたんに眠くなる。徐々に意識が遠く なる。自分が死の世界に入ろうとしているのが認識できる。とても穏やかな気分だ。

おお、そうだ、あれを云わなくちゃ。「あ〜、面白かった」

コーヒーカップが落ちてカチャンと割れる音。異変に気付いた女房が救急車を呼ぶがすでにこときれている。病院で死亡確認後、葬儀社を呼び家に戻る。葬儀社には棺と斎場の手続きのみをしてもらう。うまく午前中に死んでいるから斎場は翌日使わせてもらえるだろう。知らせるのは息子2人だけ。近所の人には気付いても知らん振りしてもらう。日ごろからそう言ってあるので大丈夫。勿論通夜葬儀の類は一切しない。斎場から一かけの骨を持ち帰り、お気に入りだった庭の隅に埋めてもらう。 それで全て完了。家族は即座に通常の暮らしに戻ってほしい。ご近所宴会のメンバーに一つだけお願いがある。俺が死んで最初のご近所宴会だけ俺用のグラスとお箸を用意して欲しい。そして「ハルボン倶楽部さん、いい人生だったね」と乾杯して欲しい。後はいつも通りに盛り上がってもらえばいい。これで完璧だ!いい遺書が出来た。

日常生活

正月料理食べつくし宴会の様子正月料理食べつくし宴会(1月2日) 淡路島に移り住んで初めての正月「居残り宴会」として寂しく3組の夫婦で始めた宴会もすっかり定着し、今年も19人集まった。PL学園で甲子園を目指すOK君もきて、みんなの激励を受けていた。昨夏のU君に継いで甲子園に応援に行く幸せを味あわせて欲しいものだ。この日の主たる話題は「ティチャーTM夫妻激動の人生"北海道赴任編"」だった。そこでちゃんとした結婚式を挙げていないことが判明したので「やろうぜ」ということになった。ハナちゃん仲人:日本一喧しいナース夫妻、介添え役:YT夫妻(プロ)、司会:コマロ(酔っ払い)、ドレス担当:コマロ夫人(プロ)と決まった。残りの俺たちは新聞紙を切り刻んでの紙吹雪係という大役をゲットした。さて花婿(68歳)、花嫁(75歳)の結婚式は実現するか!

お泊りハナちゃん(1月3日) OMファミリーがお茶しに来ていて「夕食にカニすきの用意してあるねん。持って来るから一緒に食べよう」と言うことになった。その夜、ハナちゃん(小二)はそのままお泊り。正月に孫達を迎えた気分が味わえて幸せだった。

うどんT(1月5日) お隣のKW夫妻から「お昼に、うどん食べにおいで」とお誘いがあった。夫妻は二人とも讃岐の出身でうどんにはこだわりがある。この日も実家の近所のうどん店のものだという、しっかり腰のあるうどんをいただいた。ココに住んでいたら、とりあえず食い逸れはない。

夕日の家(1月6日) 昨年台風被害を受け、大阪に引き揚げているMT夫妻から「家の中の土砂を取り除いたから見といて」と電話。鉄骨が巨石の形そのままにグニャリと曲がっており、コレが木造だったら完全崩壊・・・と思うと今更ながらに命があったのが奇跡だと思う。今後どうなるか分からないが、夫妻の気持ちは再建に向いているように感じられた。少し気持ちが晴れた。

プランタタケちゃんのプランタ(1月7日) タケちゃんが母親、姉と共にいきなり現れた。タケちゃんはダウン症という障害を持ち、小学校1,2年の時担任した子だ。今年成人式だって。2年前養護学校高等部の卒業制作で焼き板のプランタを作った。それを「センセにやるねん」と言い続け、2年越しの実現となったそうだ。そんなことされたら、オッサンかて泣けるに決まってるやないか。

巨大キムチ鍋宴会(1月9日) いつものご近所宴会だが、OK家の巨大土鍋に感動した。大好物キムチ鍋だったのでさらに感動。またまた幸せな一夜を過ごさせてもらった。

三熊山からの景色三熊山洲本城跡(1月13日) 釣り、畑、庭に出ることの減る冬季は、何かしら新部を立ち上げて活動してきた。昨年は水泳部、その前は温泉部だった。今年はウオーキング部を立ち上げた。車で出かけ、適当に止めてその周辺を1時間程歩き回る。1月13日は古茂江ヨットハーバーと三熊山の洲本城跡付近を歩いた。展望台から紀淡海峡と洲本市街地、南北両方の景色を眺めることができる。近場でもまだ知らない良いところがたくさんある。
永六輔さんだっけ「初めての角を曲がればそこは旅」

うどんU(1月18日) 女房が大阪に行って居ないのを知ってか、コマロ夫人から、「お昼、うどん食べにおいで」の連絡。昼飯どうしようと思っていたところなのでラッキー。

ズワイガニ緊急カニカニ宴会(1月22日) 我家の食料庫HR夫人から「カニが届いたから宴会しよう」と電話。このカニ、脱皮したばかりのズワイで一日置くと真っ黒に変色するのでとにかく今夜中に食べなければならないのだそうだ。「我家は喫茶部があるからなぁ」など話していたら「私に全部お任せ!」といって、食材から出汁まで全て用意して持って来た。緊急連絡にもかかわらず、「カニカニカニ」とハサミをチョキチョキさせながら横歩きで集まってきた。甲羅酒が最高!HR家に感謝。

干しあわびの煮込み中国料理(1月24日) 我家の直ぐ下にTOTOの保養所がある。建物は安藤忠雄の設計とかで、見学者も多い。当然ながら利用者はTOTOの関係者のみだったのだが、最近一般の人も宿泊や食事が利用可能になった。早速近所の人たち8人で試食に行った。全9皿のフレンチ風中国料理フルコースは3500円とは思えない豪華さだった。「干しアワビの煮込み」だけでもそれくらいの価値があるように思った。最後にシェフと少し話したが、久々に料理人の心意気というものに触れた。

明るい農村部仕事始め(1月25日) 春ジャガの畝作りを始めねばならない。この季節、明るい農村部をがんばることは、腰痛部にケンカ売っているようなもので、最大限の注意を払わねばならない。さて今年最初の鍬を振り下ろすと、なんと手のひら大のカエルが現れた。仰向けにひっくり返りアヤヤアヤヤと手足を動かしている。「冬眠中のところをスマン」と謝り、畑の隅に埋め直してやった。味噌作りの様子

愛と真実の味噌作り(1月26日) 「ふれあい工房」での味噌作りも初回から参加させてもらっていて、これで4回目だ。作陶展、桜コンサートなどもそうだが、「ふれあい工房」のよさの一つは、地元の人たちと、我々新島民が一緒に活動できることだと思っている。感謝!